葬式って何でしょう?
多分、大多数の人は『故人の供養』とおっしゃるだろうし、それを否定する気は毛頭ありません。
では『供養って何でしょう?』
僧侶の読経、戒名、豪華な祭壇、生花スタンド、火葬中の食事などに高額な費用を掛ける事ですか? 葬儀業界で17年間支援活動を続けてる無信仰者の僕にはいずれも供養にはなりません。皆さんが故人だとしたら、これで浮かばれるのですか?
あなたの死後、高額な費用を掛けた葬式さえして貰えば、例え残る家族の生活がどうなろうと浮かばれるのですか? 僕は残す家族の生活、一緒に活動してきた千明の生活、そして、あんしんサポートの会員さん達に湧く不安感のほうが自分の葬式より気掛かりです。
供養とは故人の不安を解消する事では
人間は生きてる時の悩み、不安、喜びなど各々の価値観と感性と諸条件で違うもの、なのに死んだら供養は誰でも一緒っておかしくないですか? 故人が配偶者や家族を心配してたとすれば、故人への読経や葬式をしたところで、故人の心配や不安は何も解決しません。
自分の葬式より配偶者や家族の生活を優先してくれたほうが嬉しくありませんか? 不安や心配を解消してくれる事が故人であるあなたの供養になりませんか?
しかし故人の親戚の中には「葬式くらいちゃんとやれ」と費用の負担すらせず、無責任な暴言だけを吐く人達から家族を守ってくれる人が必要なんです。それも葬儀支援センターとしての使命、時には親戚と口論になっても貫き通してきました。
この手の親戚は暴言を吐いてる事さえ気付かず、正論を語ってるつもりなのでしょうが、自分の愚かさを吐いてるに過ぎません。
だから支援センターが必要なんです
親戚、葬儀屋、寺を筆頭に「金を掛けさせ」、親戚は「暴言ばかり」葬儀屋は「詐欺のような商法」寺は供養と「脅す」百戦錬磨の口撃に素人が敵うはずがない。
17年間の経験則から多く人達は僕の言う葬式論に反対しないでしょう。しかし口先だけでは僕も詐欺師と同じだから家族目線の支援センターを目指して17年、幸いにも豪華な施設以外の目標は全て達成したので団塊世代が終幕期を迎える2030年代の準備はできました。
供養は生前しかできない
僕には「姉」「祖父母」の3人に対する後悔があり、この後悔はこれから先も解消することはありません。その後悔は全て対象者の3人が存命中でなければ出来ない事だからです。
生後数カ月~5才、15才~結婚まで育ててくれた人達、馬鹿孫の僕は何の孝行も恩返しもすることなく、心配ばかり掛けたまま祖母、続いて祖父も亡くなりました。
もし生きてくれてたら、孝行の真似事くらい出来るし、せめて余生だけでも楽しく過ごさせてあげられたかもしれない――、姉の死後でしたが自分の馬鹿さ加減にようやく気付きました。
癌を発見した時は余命2カ月のスキルス性胃癌、姉は46才で逝きました。でも余命期間を伝えないまま3か月間を病室で過ごさせてしまった事です。
余命宣告を伝えておけば少なくとも2カ月は病院のベッドでなく、子供達との時間、逢いたい人との時間も造ってあげられたはず、それに気付いたのは入院から3か月目という愚かさは今も引きずってますが、支援活動の中で活かされています。
これが供養になる事は生きてる時にしておかないと後悔になり、生前に行動した人は結果『供養』が出来るというか死後に騒いでも供養に成らない理由、これが17年間3千件の経験則から教えられた本当の供養と後悔しない唯一の方法です。
『供養』は死後に行うものと思ってる人は単に伝え聞かされてきたもの、だから当支援センターは事前相談でその旨を伝え、納得した人は入会し後悔を残さない終幕期を過ごして貰えるよう『完全会員制』を敷いてるのです。
きっかけは父親
父親は38才で家業倒産時に単身蒸発、37年後に八王子裁判所から逝去の一報、看取ってくれた女性から聞かせて貰えた終幕期の過ごし方、遠くない未来に永遠の別れを迎えると感じた父親達は、1日1日を大事に過ごしたそうです。
糖尿病が悪化した父親は車椅子生活に入ったそうで、最後の旅行と覚悟してグァム島に行った写真も見せてくれました。そこには老いてはいますが父親が写っており、周囲には外人さん達が座って談笑してるもので「お知り合いですか?」と訊ねてみました。
「いいえ、現地で知り合った人達だけど、彼は誰とでもすぐに仲良くなれる人でした」と言われた時、息子の僕も同じだと答えました。最後の思い出作りに車椅子を押して行ったそうです。
亡くなる前、父親自身で葬儀屋に依頼、彼女には「5項目」お願いしたそうです。
① 葬式は彼女1人で火葬だけの葬式で良い
② 菊の匂いは嫌いだから薔薇の花にして欲しい
③ 線香の臭いは嫌いだから要らない
④ 水でなく水割りを供えて欲しい
⑤ 遺骨は全てハワイの海に散骨すること
部屋で棺に安置した写真を改めてみると「線香は無く」「薔薇の花があり」「水でなく水割り」が供えてあるのを見て『だよなぁ』と微笑ましく思えました。ただ最後の全てハワイの海に散骨が理解できず理由を聞いても分からないようでした。
遺骨は粉骨にして彼女自身がリュックを背負って散骨したそうですが、彼女から聞いた話しを総合的に考えると1つの結論に達したので再度「父親が全てハワイの海に散骨」と言った理由を聞くと「海が好きだからでは?」と言うので僕の感想を伝えました。
武井「多分違うと思います。あなたの重荷になりたく無かったんだと思う」
彼女「どういう意味ですか?」
武井「父親は泣き顔でなくあなたの笑顔を見ていたいんですよ」
武井「自分の遺骨や墓があったら、あなたの心を縛ることなる」
武井「だから全て遠い海に散骨すれば、あなたが心を寄せる人が現れたら飛び込める」
武井「それが先に逝く父親のあなたに対する最大の思い遣りだったのでしょう」
聞いてた彼女の目は真赤で涙を流しながらの笑顔で頷いてました。
それから半日間ずっと2人の思い出話しをする彼女は満足感一杯の笑顔を見ていると『これが葬式の本来あるべき姿』だと心から思えたのです。
人生の終幕から目を逸らしたり、誤魔化したりせず、真正面から受け止め、残された日々を精一杯楽しんで互いを想い合って生きるから後悔でなく『満足感』が得られるのです。
父親は家族を捨て単身蒸発した弱い人でしたが、葬式の本質を教えてくれた人でした。
「葬式」「供養」「後悔」の結論
「葬式」とは大切に思う人同士が永遠の別れを受け入れたり、互いに後悔の種となりそうな事を可能な限り取り除く為の時間、ゆえに短時間で終了する人もいれば、数カ月、数年と長期を要する人がいても不思議でなく互いへの想いで異なるだろう。
依って厚い信仰心を持つ人以外、葬式の根本は宗教儀式ではなく無信仰者7割と言われる日本に於いて宗教儀式の葬式は3割未満でも不思議ではありません。
ひとつだけ明確に言えるのは『葬儀は大事、でも残る家族の生活はもっと大事、だから絶対に無理をしてはいけません』残る家族の生活を守ることは故人の供養にも通じます。
「供養」「後悔」とは豪華で派手な葬式をしたり、高額な布施を払っての読経・戒名でもなく、対象者が終幕後に残る不安・心配・未練を可能な限り存命中に実現してあげる事が終幕後の供養になるのですから、供養の基本は死後でなく存命中にしかできません。
それが「後悔」をしない、後悔し続けない為の唯一の方法である事も自覚しておくべきです。
自分以外の人に対する後悔が、やり直せるとしたら存命中の人ですから、躊躇わずすぐに行動すべき、その相手が終幕を迎えてしまったら後悔が消える事はないからです。
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