動機付けは反復から

生き方

前回の葬式での学びを活かす

19日の午後3時過ぎ、片道40分ほどの距離にある病院で逝去の一報は、昨年母親を亡くした息子さんからで、母親逝去の時は車椅子で付き添われていたお父さんが亡くなった知らせです。

依頼は「ぱっく60(直葬+散骨)」と事前確認してあり余裕がない事も了承しているので、48時間以内の安置なら追加料金の発生を防げると、すぐに火葬予約の連絡を入れると21日朝9時の火葬予約1枠を逃がすと2日間遅れると分かり予約した。

20日は午後も葬式があり身体が空くのは午後5時過ぎ、午後5時15分までに市役所に飛び込めなければ友引も絡んで25日の火葬となれば、当方でも安置4日(¥6,000×4日=¥24,000)ドライアイス1回(¥11,000)で¥35,000の追加料金が発生する。

そこで病院までの道中、車内から息子さんに電話をして死亡診断書を受けとったら折り返し電話するよう伝え、電話が入ると死亡診断書の記入事項を電話で伝えながら全て記入して貰い、到着前から病院に到着時間を伝えておき迅速に寝台車に乗せると地元市役所に向かった。

市役所到着はジャスト午後5時でセーフ! 前橋市、高崎市なら火葬許可証発行まで1時間は掛かりますから、市役所職員さん達に残業させちゃうなぁと思いながら待合椅子で待機してると、終業時間の5時15分には許可証が発行され驚きました。

帰りの車中「なんだよ、市役所もやれば出来るんじゃん」と笑いながら戻りましたが、頑張った甲斐あって息子さんへの追加費用の発生は抑えられました。

いつもの事ながら、依頼者から頼まれても無いのに奔走して達成するとホッとしてる自分に苦笑、いちいち説明してないから、裏話は知らないままの家族も多いけど『オッシャー!』と自己満足してるに過ぎないが以前の葬式で聞いてた記憶が役に立つ事も多い。

事前相談は反復の場

昨日は午前6時30分起床、午後7時30分前には、あんしん館出発、通勤時間も想定よりスムースで火葬中は近くのファミレスでモーニングを食べて待機、10時過ぎに焼骨を受け取ると50分の距離にある当方永代供養墓から2名分の遺骨を出して持ち帰る。

午後4時から2家族の事前相談、毎回のように話題になる「葬儀支援を始めたきっかけ」「超低料金で存続できる理由」は毎回のように話すので面倒にもなるけど、この部分は話の手を抜かず当時を振り返りながら話すよう心掛けてます。

父親逝去の一報が八王子裁判所から届き、遺言書開封には立ち会えなかったが、後日、父親を看取ってくれた人と鎌倉で逢い「葬式とはなんぞや」の思いで当社スタッフが連れてきてくれた千明と出逢った事から葬儀屋と寺の建前と実態に怒りを覚え始まった葬儀支援です。

年中無休で24時間対応だから、酒は飲めず、旅行も出来ない17年間で時には体調を崩すこともあるから、精神的に萎える事もあるけど、これを月に何度も口にする事で初心に帰れる自分がいて、モチベーション動機付けの維持にもなってます。

何度も何度も反復し続けてる17年間は自分で潜在意識に刷り込んで来たんだと思う。

潜在意識に善悪の区別は無いだろう

事前相談は毎回初めての人達ですから違和感なく聞いて貰える場ですが、同じ話題を何度も繰り返し話せて、聞いてる人達も関心を持って聞けるって、そうそうあるとは思えませんから偶然でしたが、非常に恵まれた環境だと思います。

その点は僕だけでなく千明も同様で会社の金が¥1,000なんて事もあったし、3年間は手弁当でまともに報酬も得られませんでしたから、理念に反する方、非会員さんは受けない、広告宣伝を止めて8年後の今も会員数が減らない今は当時からみれば嘘のような現状です。

今回のケースでは繰り返す事がメリットになってますが、潜在意識に善悪の区別があるとは思えませんから、ネガティブ否定的・消極的な発想や発言を繰り返せば、ネガティブな人間になり、他人を責める発言を続ければ批判的な人間になるんだと思う。

俺は出来る、、は意味がない

実際にどれだけいるか分かりませんけどドラマとかで「俺はできる」「俺ならできる」と言ってる場面を何度も見てきましたが、本当にできる人には浮かばない発想だと思う。「俺はできる」とか「痛くない」は「できない」「痛い」を強調してる言葉に思えます。

達成、成功するシュミレーションだけでなく、その過程を起こりうる障害や失敗も想定し、回避や対処方法も検討した上での『俺なら出来る』とは似て非なるものです。

サラリーマン時代、美容業もそうでしたが、葬儀支援で立てた目標の大半は「絶対無理」と言われるものばかりでしたが、当の本人は『出来るとか出来ない』と考えた事すらありません。

17年前の当時を振り返ると『いつでも何処でも誰にでも目標を語ってた』気がします。意気消沈しなかったのは「それが実現したら助かる人はいくらでもいますよ」の言葉が「でも絶対にできないでしょ?」の言葉の前後に付随してたから、なら挑戦する価値はあると思えたのです。

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